随想 (『英語史研究会会報』 2006年~2016年)


随想(1) 

2006年8月10日 (木)

「H. Bradley, The Making of English の行間を埋める作業 」

衛藤 安治(福島大学)                           

 今まで様々な『英語史』を教室で使ってきた。2,3年も使うと、正直言って飽きてしまうものが多い。しかし Henry Bradley, The Making of English (1904) と Otto Jespersen, Growth and Structure of the English Language  (1905) は何度使っても決して飽きることがない。何度読んでも新しい。これらのテキストに特徴的なことは孫引きが無いということである。総て著者自 身の頭のなかで考えたことがテキストの内容になっている(ように感じられる)。つまり総てがオリジナルなのである。A. C. Baughの大著 (1935;1957;1978) が出て以来、これに影響された「類似品」がいくつも出版されている。すぐに退屈するのはこの種のものである。しかし、Baugh をベースにして書かれたものでも、渡部昇一『英語の歴史』(大修館:1983) は面白い。Bradley と Jespersen は言うまでもなく Baugh 以前の出版である。
 Bradley の『英語史』が再読、再々読に堪えられる本である理由の一つは、教師にとってこれが挑戦的なテキストであるということである。飽きるどころか、教師の力量 が常に教室で試されるのである。例えば、ヨークシャーの石碑に刻まれた古英語が北部方言の具体例として紹介されているが(成美堂版:pp.25-6)、そ れが標準的な古英語の活用語尾とどう違うのか Bradley は全く説明していない。このテキストは日本の様々な大学で使用されていると思うが、「先生、正しい語尾の形を教えて下さい」という学生の質問に即答できる 英語史担当者は少ないのではないか。
 教師がヒヤリとする箇所は他にいくつもある。Domesday Book に見られるス ペリングの問題には具体例が全く示されていない(p. 27の脚注)。文法的性に関する南部方言の保守性についての言及はあるが、これについても具体例は示されていない(p.40)。初期中英語において、フラ ンス語の性に影響された英語の例が見られることが指摘されているが、これも具体例はない(pp.40-41)。分析的属格の用法がまずフランス語借入語で 最初に用いられた、との指摘があるが、これにも具体例は示されていない(p.49)等々。教師としては例示をしたくなるところであるが、テキストにはそれ がない。
 Bradley はこの本を可能な限り簡明なものにするために、詳細な説明を極力避けて執筆したと序文に記している(p. vii)。日本の英語教師には挑戦的な本になってしまったのはこのためである。
 Hogg や Denison のような新しい『英語史』(その文献一覧に Chomsky はあっても、Bradley が挙げられていることはまずない)も出版されているが、Bradley の行間を埋めてくれるようなものはあまりないように思える。 Bradley の興味が、英語の文献学的な側面にも向けられていたのに対して、新しい『英語史』の著者たちはもっぱら英語の「言語学的な処理」に終始しているからであろ う。説明はスマートだが何か物足りない。この物足りなさを埋める作業が Bradley の行間を埋める作業になるのかもしれない。それは一世紀余り前の天才的英語学者の「健康な文献学的興味」を継承する作業であり、現代言語学の重大な欠損部 分を補完することにつながる貴重な作業にもなるように思われる。


随想(2)

2008年10月26日 (日)

発音の易・不易――ヴェルネルの法則と類推、非円唇化」

西村公正

 ここ2、3年のこと「ラグジャリ()」というカタカナ日本語を週刊誌で見かけ、誰かが「ラグジュアリアス」あたりから類推したカナ表記か?と苦々しい思いをしていた。
 やっとこの夏に『ジーニアス英和辞典第4版』(G4)を見ると、結果はこちらが身の不明を恥じることとなった。現在の米音では /lʌ´gӡəri/ /lʌ´əri/ を凌いでいるのである。『ジーニアス英和辞典』でたどってみると、『改訂版』(1997) では /lʌ´əri/ に追記して「《米+》lʌ´gӡəri」 とある。これが『第3版』(第5刷、2005)では『第4版』のようになった。
 
Kenyon & Knottの米語発音辞典 (1943) では /-gӡ-/ much less freq.[uent]” として、“The pron.[unciation] with -kʃ- is phonetically normal (owing to accent); that with -gӡ- is due to analogy of /lʌgӡu´əriəs/とある(下線部は IPA 方式に変えた)。
もっともこの「類推」はアメリカ人に限らないのであろう。G4exhibit の発音表記には /igzi´bit/ に「《英+iks-」 を追記している。
 私は車にはまったく興味がないので、日産自動車が「スポーツ・ラグジャリー」という車名を 1999年に使っていることを今日まで知らなかった。そのころはまだ英語教師をしていたから、学生の
ヴェルネルの法則違反発音を間違いだと決めつけていたことがあったかも知れない。いずれにせよ、英和辞典で調べるべきであった。
  発音に関してG4 からもう1つ引いておきたい。Come に北イングランドの発音としてその母音がbookのそれと同じであることを示している。G4CD-ROM版)で「北イング」を検索語にして全文検索をすると、buscupcutsun が同じ扱いになっていることがわかる。
 ブルンナー(松浪他訳『英語発達史』、p. 289)には、「ME /ʊ/ 16世紀以降, 次第に非円唇化し, …」とある。さらに、地域差については以下のように述べている。
 北中部地方
(Lancashire, 西部 Yorkshire) Durham においては、非円唇化は弱いかあるいはほとんど生じておらず…Durham では Lancashire Yorkshireにおけるよりも /ʊ/ に近づいている。(p. 289
 なぜ Durhamでは非 円唇化が生じなかったか?ブリテン島の北、しかもメキシコ湾流が運ぶ暖気の恩恵に浴さなかった東側の寒い地方ゆえに、絶えず唇を緊張させておく必要があっ た、暖かい南部ではつい唇がゆるんで …、ほどのこじつけをしたいが、黒田龍之助『はじめての言語学』(講談社現代新書、2004)が「インチキな言語論に騙されない」の項で「次のような話はどれ一つとして根拠がない」と「寒い地方の言語は口を開けないで発音する」を挙げている(p. 238)。誰かの説があれば知りたいが手元にはしかるべき文献が無い。


随想(3)

2009年7月21日 (火)

「言語資料としての英語聖書と外国語の影響」

佐藤 勝(日本大学)

 これまで英語聖書四福音書を中心的な言語資料として統語研究を行ってきた。佐藤勝(2006)(cf. 新刊紹介 (8))では、言語資料としての英語聖書の長短所そして古英語聖書四福音書の校訂本について記し(第10・11章)、英語聖書における外国語の影響につい ても言及している(68, 69, 84, 85, 108, 116, 119頁)。ここでは、標記について以前より疑問に感じていることを記す。(I)言語資料としての英語聖書における外国語の影響を問われた場合、その検証 はどこまで可能か、(II)ラテン語の影響を受けていない古英語の書物は存在するのか、そしてその検証はどこまで可能か、という2点である。なお、文献・ 書誌学を専門としないため誤認があるかもしれない。その箇所についてはご容赦いただきたい。
 (I)について記す。逐語訳ではない古英語聖書四福 音書の校訂本そしてラテン語の影響を例として話を進める。まずは、古英語聖書四福音書の校訂本完成までの工程を遡る。おおよそ次の通りであろう。「古英語 聖書四福音書校訂本←複種類の古英語聖書四福音書写本←古英語聖書四福音書オリジナル←複種類のラテン語聖書写本←ラテン語聖書オリジナル←複種類のギリ シア語聖書写本←ギリシア語聖書オリジナル」である。この工程が正しいとすると、古英語聖書四福音書校訂本におけるラテン語の影響を問われた場合、写本・ オリジナル・ギリシア語までも考慮する必要がある。すなわち、次の7点を検証する必要がある。①古英語聖書四福音書校訂本はどの古英語聖書四福音書写本よ り作成したものか、②①で使用した古英語聖書四福音書写本は古英語聖書四福音書オリジナルに等しいか、③古英語聖書四福音書オリジナルはどのラテン語聖書 写本より翻訳したものか、④③で使用したラテン語聖書写本はラテン語聖書オリジナルに等しいか、⑤ラテン語聖書オリジナルはどのギリシア語聖書写本より翻 訳したものか、⑥⑤で使用したギリシア語聖書写本はギリシア語聖書オリジナルに等しいか、⑦ラテン語・ギリシア語はどの時代・地域のものか、である。検証 はどこまでされており、また可能なのか。単独の研究者が検証できるものではなく、異なる専門分野の研究成果の繋がりが期待される。
 (II)につ いて記す。テキスト・ジャンルに関係なく、文献として残る古英語は本当の古英語なのだろうか、と考えることがある。現代英語は現用語のため、その真実性を 容易に証明できるが、古英語は死語のため、その真実性を証明できるとは考えがたい。実際に使われていた古英語は口語が中心と思われるが、それは古英語文法 書にあるような複雑な規則性の高い言語というよりは、むしろ単語の羅列に近い荒削りな言語ではなかったのか。そして文献として残る古英語は、ラテン語に造 詣の深い有識者による、ラテン語模倣の創られた(=洗練された)古英語とは考えられないか。
 以上、標記について以前より疑問に感じていることを記した。今後も文献・書誌学に可能な限り注意を払いながら、自己に課してきた統語研究を継続していこうと思う。


随想(4)

2010年6月18日 (金)

「推理小説のなかの古・中英語文献」

西村公正

 推理小説に中世英語を専攻する大学生を登場人物にしたものがある。作者はどういう書物をこの女子学生に読ませているか、こういう例は珍しいと思うので、30年前のものであるが紹介しておきましょう。ルース・レンデルの A Judgement in Stone (1977) は、上流階級 (upper middle class) でインテリの一家4人全員が、雇いいれた目に一丁字のない家政婦に惨殺されるというもの。書き出しは “Eunice Parchman killed the Coverdale family because she could not read or write.” (引用は Arrow Books 版、1978による)。
 娘の Melinda が二十歳、大学 (the University of Norfolk in Galwich -実在かどうかは不明) では英文学専攻である。
 まず Sir Gawain です。一家の娘は大学生であることを記して、大学に関しては、いきなり、“Melinda Coverdale, in her room in Galwich, was struggling to make sense out of Sir Gawain and the Green Knight.” (p.19) と出てくる。ただし、学問にそれほど熱心という設定ではなく、休暇で家に帰ったこの女子学生は、“An energy that never seemed to flag, except where Middle English verse was concerned, kept her constantly on the move.” (p.25) と描かれている。日本で言えば昭和50年ごろの時代設定であろうが、そのころの英国の大学生でもこういうものだったのでしょうか。あるいは中英語の韻文は そうそう歯がたたず難解で辟易しているのかも知れない。
 大学の下宿生活では、恋人の部屋に通いづめ、“Sweet’s Anglo-Saxon and Baugh on the history of the English language weren’t so much as glanced at for a fortnight . . .” (p.98) という有りさまです。
 作者は以上の3冊を配しています が、これは上流インテリ階級の子女を際だたせる記号であろうか。Shakespeare でもChaucerでもこれらは余りにも膾炙され過ぎているので卓立性がないのであろうか。SweetのAnglo-Saxon やBaughの英語史はこの推理小説の読者には「なんだか知らないが大学の英文科で読むものか?」というインパクトがあるのではないでしょうか。
 邦訳が『ロウフィールド館の惨劇』の題名で出ています(小尾芙佐訳、角川文庫、昭和59年)。Sir Gawain は 「〈ギャウェイン卿と緑の騎士〉」と訳している。Sweet’s Anglo-Saxon は Primer なのか Reader なのか。翻訳では「スウィートのアングロサクソン語」である。いずれにしてもこれらは筋にはまったく絡まない、大学生の読む本か、という役割しか果たしていない。上に引用したp.25の “Middle English verse” も邦訳は「古典詩」である。


随想(5)

2013年8月 3日 (土)

「理工学的評価尺度の中の英語史研究」

佐藤 勝(日本大学理工学部)

 工業(超)大国である日本では、文系大学教員も理工学的尺度で評価されるようになって来ている。「研究」「教育」「学内・社会活動」ごとに点数化 され、その質的内容も厳格に審査される。この傾向は理系学部でより顕著なため、理系学部教養教員の昇格は困難を極めているのかもしれない。このような状況 下、英語史を専門とすることは非常に不利であるのか。理論系英語学を専門とするのが現実的なのか。理工学部勤続25年(副手〜教授)から得た教訓を5点記 す。
 ①英語史の実証的通時研究は理工学研究に類似している。工学・実験系理学研究では、「調査」「分析(=考察)」「まとめ」の 構成、多くの実例・表・グラフの提示、緻密・一目瞭然、が求められる。英語史の実証的通時研究も同様であり、そこには深遠も感じられる。英語史の実証的通 時研究を「例文・表が多く考察がない」と一喝する評者がいるが、客観的評価とは思えない。工学・実験系理学研究と理論系英語学研究との間には大きな違いが あり、理論系理学研究と理論系英語学研究との間にもそれ相当の違いがあると感ずる。
 ②英語史の実証的通時研究は実用的である。理工学部において、「教育」では検定試験に資する言語能力、「学内・社会活動」では緻密・明解な実務能力が求められる。英語史は、優れた言語能力そして緻密・明解な分析・考察・事務能力を要する研究分野である。
 ③「世界競争」に惑わされてはいけない。理工学研究は「ものづくり⇒世界市場での売買」に直結しており、「世界競争」は当然のことである。条件の全く違う、世界に開かれていない文学分野に「世界競争」を迂闊に持ち込むことは好ましくない。
 ④英語史を専門とすることは現実的である。①〜③よりご理解いただけよう。英語史は、自信をもって研究すべき専門分野である。
 ⑤研究分野の違いを力説し、正当な評価基準を獲得する。研究分野により、成果が出るまでに要する時間は異なる。研究分野による様々な違いを正当に評価されるよう所属学部へ力説すべきであり、そのためには勤勉さを継続し信頼を得ることが必須である。
  以上、様々な世代の方の参考になりましたら幸いです。


随想(6)

2014年3月10日 (月)

「『永遠の0』と Beowulf

衛藤安治(福島大学人間発達文化学類)

 『永遠の0』が映画化され、上映されることを知り、まず小説を冬休みに読んでみた。正月休みに帰ってきた息子も、買ったばかりの『0』を持ってい た。私の世代は二次大戦の戦記物と言えば、戦争体験者による作品を連想する。しかし半世紀以上の時間がたてば、次第に執筆者が戦争を体験していない、戦後 世代になることは必定である。私は戦後世代の戦記物を何となく嘘っぽいと感じていた。それで、辺見じゅんの『男たちの大和』も最近まで読んでいなかった。 しかし、今回の『0』の圧倒的な人気に促されて、小説を読んでみた。案の定、これには血や硝煙の臭いがしない。間違いなく、戦後世代の小説である。しか し、嘘っぽいとは思わなかった。そして、Beowulf もこの作品と同じようにして作られたのではないか、と思った。
 Beowulf も『0』も「忠誠心、勇気、誠実さ、優しさ」といった人間的な美徳を備えた「歴史的には実在しない人物」が歴史的コンテクストに位置付けられ、物語が構成されている。Beowulf の場合のコンテクストには「歴史」と「神話」が含まれているが、当時の人にはこれは渾然一体のものと感じられていたはずである。「歴史」ということばを使 わないとすれば、「人々が自分たちの履歴あるいは過去として意識している物語」のなかに、「普遍的な人物像」を位置付けている、ということになろう。そう することによって、アングロ・サクソン民族は、「異教の履歴・過去」と断絶しなくてすむことになったのである。一方、『0』のおかげで、現代日本人には 「特攻という暗い過去」を、否定せずに語り継ぐ勇気が与えられたのである。あとに残された我々は「この物語を語り継ごうではないか」と、映画の登場人物は 小説にはない科白を語っている。
 自分の過去を否定・断罪することは、健康な精神には耐え難いことである。私たちが精神の健康を維持するために は、過去を語り継ぎながら生きていくしかないのかも知れない。そうであるとすれば、私たちは過去を反省することがあるとしても、否定してはならないのでは ないか。『0』を読んでそう思った。


随想(7)

2014年6月27日 (金)

「再び、Andreas Beowulf

衛藤安治 (福島大学人間発達文化学類)

 Ernst Leisi の論文 (“Gold und Manneswert im Beowulf.” Anglia 71 (1952-3), 259-73.) にはBeowulf 解 釈の重要な論点が含まれているが、イギリスでは完全に無視されている。一方、アメリカでは少し事情が異なり、Fred C. Robinson (“Lexicography and Literary Criticism: A Caveat.” 1970. Reprinted in his The Tomb of Beowulf. 1993, pp. 146-7.) やMichael D. Cherniss (Ingeld and Christ.1972, pp. 79-101.) はLeisiを肯定的に紹介している。最近ではPeter S. Bakerが新著 (Honor, Exchange and Violence in Beowulf. D. S. Brewer, 2013.) でLeisi を “a classic article” (p. 58) と呼んで、その内容に言及している。アメリカでは一定の評価が定着していると言えるだろう。そこで生ずるのが、「イギリスの研究者はどうして Leisiに冷たいのだろうか」という疑問である。博覧強記のRichard NorthでさえLeisiには言及がない。
 数年前から、これはE. G. Stanley 教授の影響(あるいは薫陶のたまもの?)ではないかと、考えるようになった。具体的には、教授の論文 (“Hæthenra Hyht in Beowulf.” In Studies in Old English Literature in Honor of Arthur G. Brodeur.1963, 136-51.) の次の一節である。

…, Beowulf showed himself eager to see the gold, and was guilty, therefore, of      avarice. (p. 146)

これをLeisiの次の一節と比較してみよう。

Es ist unmöglich, auf altenglisch von jemandem zu sagen: „Er ist reich, aber ein      schlechter und unglücklicher Mensch,“ weil im Begriffe „reich“ Tugend oder Glück oder beides schon eingeschlossen ist. …. (p. 260)

Beowulf における「黄金」は「人間的価値」を意味する、というのがLeisi論文の全体を貫く主張である。Diametrically opposedと言うべきだろう。両者の主張の是非についてはここでは立ち入らない。ただ、 Stanley 教授の結びの言葉について考えてみたい。

….: they have no hope. That is why we reread the poem with sadness and compassion of an ideal that avails nothing. (p. 151)

余りにも「暗い」読後感ではないか。Beowulf にみられる、主人公の不撓不屈の精神から受ける印象は、むしろ、「明るさ」 ではないだろうか(いわゆる第2部が暗いのは「英雄の最期」を演出しているためである)。作品の主題は主人公の「忠誠心と勝利至上主義」であり、その背後 にあるのは「顧みて天地神明に恥じず」(ll. 2732-43) と揚言できる主人公の明朗な精神だと私は思う。
 ところで、Beowulf の影響を強く受けていると考えられている作品Andreas の良き理解者も、イギリスには少ない。もしかすると、これもStanley 教授のBeowulf 解釈が、その影を落としているのではないか。近頃私はそう思うようになった。Andreas は、Beowulf と の類似表現が用いられていることでよく知られている作品である。Andreasに英雄詩の表現が用いられた理由は、(他に選択肢がなかったということも あったかも知れないが、)聖人伝と英雄伝に通底する共通項があったからだと思う。揺るぎなき「忠誠心と勝利至上主義」がそれである。しかし、古英詩Andreas の面白さは、この共通項とのズレがギリシャ語やラテン語の散文原典にすでに存在していて、それをAndreas の作者が二倍三倍に増幅させながら古英詩に訳していることにある。両者の共通項を見失うと、そのズレを見失い、Andreas におけるBeowulf との類似表現は、その言葉遊びの面白さが失われ、ついには、つまらない「不適切表現」(“incongruities”) に見えてしまうのである。
 Andreas の作者がキリスト教について知悉していた人物(おそらくは聖職者)であることは言うまでもないが、同時にBeowulf の現世的「忠誠心と勝利至上主義」にも温かい理解を示しうる、度量の大きな人物だったのではないか、と私は推測している。そうでなければ、あれほど面白がって、類似表現を宗教詩であるAndreas に多用することはなかっただろう。確かに、Beowulf の 「館」を表す語彙が「ユダヤ人の神殿」に用いられていたりもするが、それは「幕屋」(Cf. Flora Spiegel, “The Tabernacula of Gregory the Great and the Conversion of Anglo-Saxon England.” ASE 36 (2007), 1-13.) を表現するための作者一流の言葉遊びとも考えられる。少なくとも、Andreas の作者はBeowulfを、「哀れむべき罪人」としてではなく、「敬愛すべき英雄」として捉えていたのだと私は思う。また、そのような読み方こそが、同時代における一般的なBeowulf 解釈であったのではないか、とも思っている。(本稿の標題に「再び」という文言をつけたのは『英語史研究ノート』(開文社出版、2008年)、pp. 66-68.ですでに両作品について論じたことがあるからである。)


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