「H. Bradley, The Making of English の行間を埋める作業 」
衛藤 安治(福島大学)
今まで様々な『英語史』を教室で使ってきた。2,3年も使うと、正直言って飽きてしまうものが多い。しかし Henry Bradley, The Making of English (1904) と Otto Jespersen, Growth and Structure of the English Language
(1905) は何度使っても決して飽きることがない。何度読んでも新しい。これらのテキストに特徴的なことは孫引きが無いということである。総て著者自
身の頭のなかで考えたことがテキストの内容になっている(ように感じられる)。つまり総てがオリジナルなのである。A. C. Baughの大著
(1935;1957;1978)
が出て以来、これに影響された「類似品」がいくつも出版されている。すぐに退屈するのはこの種のものである。しかし、Baugh
をベースにして書かれたものでも、渡部昇一『英語の歴史』(大修館:1983) は面白い。Bradley と Jespersen は言うまでもなく
Baugh 以前の出版である。
Bradley
の『英語史』が再読、再々読に堪えられる本である理由の一つは、教師にとってこれが挑戦的なテキストであるということである。飽きるどころか、教師の力量
が常に教室で試されるのである。例えば、ヨークシャーの石碑に刻まれた古英語が北部方言の具体例として紹介されているが(成美堂版:pp.25-6)、そ
れが標準的な古英語の活用語尾とどう違うのか Bradley
は全く説明していない。このテキストは日本の様々な大学で使用されていると思うが、「先生、正しい語尾の形を教えて下さい」という学生の質問に即答できる
英語史担当者は少ないのではないか。
教師がヒヤリとする箇所は他にいくつもある。Domesday Book に見られるス
ペリングの問題には具体例が全く示されていない(p.
27の脚注)。文法的性に関する南部方言の保守性についての言及はあるが、これについても具体例は示されていない(p.40)。初期中英語において、フラ
ンス語の性に影響された英語の例が見られることが指摘されているが、これも具体例はない(pp.40-41)。分析的属格の用法がまずフランス語借入語で
最初に用いられた、との指摘があるが、これにも具体例は示されていない(p.49)等々。教師としては例示をしたくなるところであるが、テキストにはそれ
がない。
Bradley はこの本を可能な限り簡明なものにするために、詳細な説明を極力避けて執筆したと序文に記している(p. vii)。日本の英語教師には挑戦的な本になってしまったのはこのためである。
Hogg
や Denison のような新しい『英語史』(その文献一覧に Chomsky はあっても、Bradley
が挙げられていることはまずない)も出版されているが、Bradley の行間を埋めてくれるようなものはあまりないように思える。 Bradley
の興味が、英語の文献学的な側面にも向けられていたのに対して、新しい『英語史』の著者たちはもっぱら英語の「言語学的な処理」に終始しているからであろ
う。説明はスマートだが何か物足りない。この物足りなさを埋める作業が Bradley
の行間を埋める作業になるのかもしれない。それは一世紀余り前の天才的英語学者の「健康な文献学的興味」を継承する作業であり、現代言語学の重大な欠損部
分を補完することにつながる貴重な作業にもなるように思われる。